Chiesa di S.Croce
サンタ・クローチェ教会
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フランチェスコ会派の教会で
アルノルフォ・ディ・カンビオの設計建築とされています
着工は1200年代ですが
教会として聖別されたのは1443年

イタリアを代表するゴシック建築のひとつといわれる
美しい教会の正面ファサードの大理石部分は
クロナカ(Cronaca)のデザインをもとにした
ニコロ・マタス(Nicolo Matas)の作品で1800年代後半に完成
使われている大理石は
フィレンツェのほかの教会と同様カッラーラの大理石

教会内部はエジプト十字のゴシック様式で三身廊式
八角形の太い柱でむき出しの屋根の木の梁を支えています
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サンタクローチェ教会
クリスマス・メルカート
パッツィ家礼拝堂

パッツィ家の陰謀
スコッピオ・デル・カッロとパッツィ家

教会前広場は広々としています
6月には古式サッカーの会場として
12月にはクリスマス・メルカートの会場としても使われます
教会前広場の端のほうにある噴水
天辺には
フィレンツェの市章であるゆりの紋章も付いていますが
なんとなく蔑ろにされている感じ
右身廊
ミケランジェロの墓
ミケランジェロ自身が
自分の手で墓を作るといって製作を始めたものの間に合わず
ヴァザーリとその弟子の手で完成

墓碑前面に並ぶ三つの彫像は
それぞれ「彫刻」「絵画」「建築」をあらわしていて
ミケランジェロが活躍した分野を示しています
左身廊
メディチ家のコジモ2世の保護を受けて
さまざまな研究を続けたガリレオ・ガリレイ
ピサで生まれフィレンツェ郊外のアルチェトリ
(Arcetri)で1642年に亡くなっています
しかし当初地動説を唱えていたために
教会から異端扱いされており教会内に祀られることはなく
後に(1737年)ここへ墓碑を構えることになります
右身廊
ミケランジェロの墓碑の前にある柱に
隠れるようにしてつけられている
「マドンナ・デル・ラッテ(Madonna del latte)」は
アントニオ・ロッセッリーノ(Antonio Rossellino)の作品
右身廊
ダンテ・アリギエーリの墓碑
ギベリンVSグエルフォの闘いの末
フィレンツェ追放となったイタリア語の祖ダンテ
亡命先のラヴェンナで亡くなり
そちらに遺骨はあるはずですが
没後何百年祭を記念して
ここに立派な墓碑だけが置かれることに


サンタ・クローチェ教会の前には
正面向かって左手にダンテのでかい立像もあります
右身廊
18世紀イタリアを代表する悲劇作家
ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)の墓碑
悲劇作家という仕事って一体…
左身廊
19世紀末のイタリアの技術者
グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)の記念碑プレート
ボローニャ近郊の街で生まれ育ち
ローマで亡くなったこの人の記念碑がなぜここに?

ルネッサンス様式の説教壇は
八角形の大理石製
ベネデット・マイアーノ(Benedetto da Maiano)作


個人的に説教壇というもの自体が好き
右身廊
中世フィレンツェ共和国時代の偉大な政治思想家であり
メディチ統治時代のフィレンツェの外交官でもあった
ニコロ・マキャヴェッリ(Nicolo Machiavelli)の墓碑
左身廊
ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)作
「聖トンマーゾの疑い」
聖トンマーゾがイエスキリストの復活を疑って
胸部の傷口に手を突っ込んだという話ですよね
右身廊
この教会内にはドナテッロの作品は2点
そのうちの一点がこの「受胎告知」
大理石ではなく
1400年代1500年代のフィレンツェで
公共の建築物に非常に好んで使われた
ピエトラ・セレーナというグレーの石を使っています
大理石のように軟らかくないので
彫るのは大変だったのではといわれています
もう一点はブルネッレスキに
「お前は農夫を十字架にかけたのか」と
酷評された木製の「キリスト磔刑」です
左身廊
メディチ家のお抱え宮廷画家だった
ブロンツィーノ(Bronzino)の「ピエタ」
こっそり置かれているので見逃しそうです

右身廊
レオナルド・ブルーニ(Leonardo Bruni)の墓碑
あまり有名ではないかもしれませんが
メディチ家の老コジモにも仕えた
フィレンツェ市書記官長の墓碑です
ベルナルド・ロッセッリーノ(Bernardo Rossellino)の作で
1400年代フィレンツェ様式の
墓碑建築の典型といわれるものです
棺の上に横たわる死者がわずかにこちらに顔を向けて
体も我々のほうに傾斜した感じになっているのが特徴
左身廊
カルロ・マルスッピーニ(Carlo Marsuppini)の墓碑
デジデリオ・ダ・セッティニャーノ
(Desiderio da settignano)作
カルロ・マルスッピーニは人文学者で
ブルーニの後継者とも言われます

中央身廊を挟んで
ちょうど向かいに合わせになるようなロッセリーノ作の
ブルーニの墓を模倣しているといわれます

非常に繊細でかわいらしい天使が
セッティニャーノらしくて好きです
教会本堂から聖具室に向かう途中の壁に
こそっと置かれている
アレッサンドロ・アッローリ(Alessandro Allori)の
「十字架降架」

アッローリは私の好きな画家の一人
ヴァザーリの死後
彼もメディチ家の宮廷画家として
1500年代後半に活躍
教会奥の翼部分にあるバロンチェッリの礼拝堂
(Cappella Baroncelli)
タッデオ・ガッディのフレスコ画は「聖母マリアの生涯」
2003年冬
中央主祭壇上の屋根の修復のため
足場が組まれています

主祭壇はアーニョロ・ガッディ(Agnolo Gaddi)
その左脇の二つの礼拝堂は
ジョット(Giotto)のフレスコ画で飾られています
バルディ礼拝堂(Cappella Bardi)は
聖フランチェスコの生涯がテーマ

聖具室の正面にはキリストの復活を描いたフレスコ画→

聖具室の横には
ジョヴァンニ・ダ・ミラノ(Givanni da Milano)の
フレスコ画で飾られた
リヌッチーニ礼拝堂(Cappella Rinuccini)
いつも鉄格子が閉じられていて
隙間からしか見えません
サンタ・クローチェ教会回廊

教会の南側には二つの回廊
教会横に広がる大回廊には
パッツィ家礼拝堂と付属美術館があります
広場の喧騒が嘘のように
穏やかな空気が流れています

パッツィ家礼拝堂前のアーケード↑
こちらは小回廊
特に何もないですが
ぼーっとするにはもってこいかも
バラ園になっていて
バラをもぎらないでくださいと注意書き
大回廊の広場側の壁にひっそりとあるこの墓碑
ジローラモ・セガート(Girolamo Segato)という
1800年代前半の医者というか科学者というか・・・

死体に妙な液体を流し込んで
石化させるという研究をした人でもあり
さまざまな業績を残しているわりには
変人扱いされることが多い人
こんなところに眠っているんですね

墓碑にもちゃんと「石化の技術を発明」と
記されています
大回廊の外れの柱につけられたパネル
私の目測ではだいたい2メートルのところに
「1844年11月5日の洪水跡」という印
←広場側からみた回廊の入り口


広場側から見るパッツィ家礼拝堂全貌→





Cappella di Pazzi
パッツィ家礼拝堂
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クリスマス・メルカート
パッツィ家礼拝堂

パッツィ家の陰謀
スコッピオ・デル・カッロとパッツィ家
サンタ・クローチェ教会脇にある回廊の一角に
クーポラ(丸天井)つきの礼拝堂があります

1443年にアンドレア・パッツィ(Andrea Pazzi)が
ブルネッレスキ(Brunelleschi)に依頼して
作らせたものですが
上層部の一部が未完成のままです
円形と方形の調和の取れた
ブルネッレスキらしいデザイン設計です

外側のアーケード部分

アーケードの内側にも
小さな丸天井がついていて
小さな彩色テラコッタで埋められています
ルカ・デラ・ロッビアの彩色テラコッタ
「聖アンドレア」も
アーケードを下から見上げた感じ→
←礼拝堂の入り口
アーケードをぐるりと飾っている
小さな天使を彫りこんだメダリオンは
デジデリオ・ダ・セッティーニャーノ作

入り口上部には
天使が両脇を抱える形で
パッツィ家の紋章がつけられています
二匹のイルカと十字架

入り口の扉は
ベネデット・ダ・マイアーノの木製大扉
アレッシオ・バルドヴィネッティ作のステンドグラス
題材は「聖アンドレア」
祭壇上の丸天井には
12星座のフレスコ画
かなり損傷・汚れ・剥離が
ブルネッレスキの丸天井
12等分されたきれいなデザイン
その回りにある4つのメダリオンは
福音書記者をテーマにしたもので
これもブルネッレスキのデザイン
礼拝堂全体の壁にはめ込まれている
彩色テラコッタのメダリオンは12使徒
ルカ・デラ・ロッビア作









Congiura di Pazzi
パッツィ家の陰謀
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パッツィ家礼拝堂

パッツィ家の陰謀
スコッピオ・デル・カッロとパッツィ家

当時のフィレンツェの実権を握っていたメディチ家に対して起こされた陰謀がパッツィ家の陰謀と呼ばれるものです。
メディチ家の独裁政権を倒すことを目的に、ロレンツォ&ジュリアーノ兄弟を狙った暗殺事件は
準備不足と計画の不完全さのために失敗に終わります。

まずは手短に。
事件は1478年にフィレンツェで起こります。
舞台となったのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(つまりフィレンツェのドゥオーモ)。
紆余曲折の末、
聖体奉挙を合図に、ミサの最中に実行されたこの暗殺事件は
フランチェスコ・ディ・パッツィ(Francesco dei Pazzi)とベルナルド・バンディーニ(Bernardo Bandini)がジュリアーノ担当、
他二人がロレンツォ担当で行われます。
この陰謀で弟のジュリアーノは刺殺されますが、
ロレンツォは体を張って彼を護ったフランチェスコ・ノーリ(Francesco Nori)の陰に隠れながら
教会左奥の聖具室に逃げ込み助かっています。
この聖具室には隠れ扉があってそこから教会外に逃げ延びたともいわれています。
この事件のあと1時間もしないうちに主犯者であるフランチェスコ・ディ・パッツィと
司祭のフランチェスコ・サルヴィアーティ(Francesco Salviati)は捕らえられ
行政長官宮の窓から首を吊られて晒し者にされます。

そのほかの陰謀に関わった人間も全て何らかの処罰を受けて
陰謀はジュリアーノ殺害を成し遂げたものの
かえってロレンツォの権力を誇張して終わります。

以下詳しい話はちょっと長いです。

当時のフィレンツェでは、メディチ家と並ぶほど裕福で権力のあったパッツィ家。
その頭領であったヤコポ・パッツィ(Jacopo Pazzi)には7人の甥がいました。
グエリエルモ、フランチェスコ、レナート、ジョヴァンニ、アンドレア、ニコロ、ガレオット。
またこの頃パッツィ家はその権力の強固のためにメディチ家との政略結婚を思いつき、
グリエルモとロレンツォの姉妹であるビアンカを結婚させています。
しかし、メディチ家のほうではロレンツォがこの動きに不信感を感じ、
これ以上パッツィ家の権力を増大させないための対策を練り始め、
パッツィ家には公的な重大任務を任せないように努めます。

そんななか財力拡大のために甥の一人であるジョヴァンニ・デイ・パッッツィを
フィレンツェでも屈指の富豪だったジョヴァンニ・ボッローメイ(Givanni Borromei)の一人娘と結婚させることで
パッツィ家はその遺産を受け継ごうとします。
これに対してボッローメイの死後すぐにロレンツォは新しい法律を制定し
「遺産相続は男子に限り、相続者が女子のみの場合にはそれを明記した遺言がなければ、
その孫・甥などの男子にその権利は譲渡される」とし、
さらにこれを制定時よりも遡って実行という強攻策をとります。
これによってパッツィ家は目論んでいた義父ボッローメイの遺産相続ができなくなったわけです。
なぜならそんな法律ができることを夢にも思わなかったボッローメイは
当然一人娘が相続するものと思って、遺言など遺していなかったからです。

これを恨みに思ったパッツィ家の中で、
当時仕事でローマ駐在だったフランチェスコ・ディ・パッツィは
やはりメディチ家をよく思っていなかった法皇シスト4世の甥ジローラモ・リアリオ(Girolamo Riario)と親密になり、
徐々にメディチ家復讐の計画を練り始めます。
この二人の復讐計画話に乗ってきたのが司祭であったフランチェスコ・サルヴィアーティ(Francesco Salviati)。
法皇は彼をフィレンツェの大司教に任命しようとしていたのですが、
これもまたロレンツォによって阻止され、
メディチ家の血縁であったリナルド・オルシーニ(Rinaldo Orsini)がその座に就いてしまいます。
これを恨みに思っていたところに降ってきた復讐話。
サルヴィアーティは一も二もなくこれに参加することに決めたのでした。

しかしこの計画を実行するに当たり、やはりパッツィ家の頭領の同意が必要だと感じた3人は
フランチェスコをフィレンツェに送り頭領ヤコポ・パッツィの説得に当たらせます。
ヤコポももちろんメディチ家を恨んではいたものの、
当時のメディチ家の権力を考えると非常に難しい計画であることも理解していたので
なかなかオーケーを出しません。
そこで、フランチェスコたちは4人目の協力者を付けることを条件にヤコポを納得させます。
その4人目がジャンバッティスタ・ダ・モンテセッコ(Giambattista da Montesecco)という法皇つきの軍隊長です。

陰謀の計画をするに当たり、それ以前にミラノで起きた暗殺事件を踏まえて
彼らはナポリ軍と法皇に援軍を頼んでいます。
メディチ家はその当時フィレンツェの実権力を握ってはいたものの悪政を行っていた訳ではなく、
実際には市民からの反発はそれほど強くなかったので、
このメディチ家暗殺によって市民が反陰謀を掲げて蜂起する可能性もあると見たからとも言われています。
とにかくメディチ兄弟殺害が成功したらすぐにフィレンツェ市の制圧が必要だったのです。

この計画の実行ぎりぎりになって新たなメンバーが加わります。
これがこの計画の準備不足と不完全さといわれる所以です。
新規メンバーはヤコポ・ブラッチョリーニ(Jacopo Bracciolini)、サルヴィアーティの兄弟一人と従兄弟一人、
それからベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェッリ(Bernardo di Bandino Baroncelli)、
アントニオ・マッフェイ(Antonio Maffei)、ステーファノ・バニョーネ・ディ・モンテムルロ(Stefano Bagnone di Montemurlo)。

計画はジュリアーノとロレンツォを同時に殺害するというのが主題。
彼ら二人のうちのどちらかが生き延びれば危険が増大することは陰謀計画側も承知していたのです。

そしていよいよそのチャンスが巡ってきます。
1478年に陰謀犯ジローラモ・リアリオの甥である枢機卿ラッファエレ・サンソーニ(Raffele Sansoni)が
フィレンツェを訪れることになったのです。
この機会にヤコポ・パッツィがフィエゾレの彼の別荘で饗宴を開き、そこへロレンツォ&ジュリアーノ兄弟も招かれます。
しかし、ジュリアーノは具合が悪く欠席、やむなく計画は先送りになります。
この時点で一回計画が破綻していることも失敗の原因といわれています。
しかし、またチャンスが巡ってきます。
その数日後(1478年4月26日日曜日)に今度はロレンツォが枢機卿サンソーニを自宅の祝宴に招くことになったのです。
一旦はこの席での暗殺が計画されたものの、その宴にジュリアーノが同席しないことが明らかになり、
再び計画は流れます。そして業を煮やした陰謀者側は同日の朝の教会ミサでの計画実行を決定します。

フランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェッリがジュリアーノ担当。
ジャンバッティスタ・モテセッコがロレンツォ担当ということになっていたのですが、
最後の最後で暗殺決行が教会内でしかもミサの最中であるということを聞いたジャンバッティスタがこれを拒否。
これによってアントニオ・マッフェイとステーファノ・ディ・バニョーネがロレンツォ殺害を担当することに。
このあたりにも既に失敗の匂いが漂っています。

ミサの最中でも、頭を下げひざまづくその瞬間、つまり聖体奉挙の瞬間が選ばれたのは、
その姿勢をとっている間なら襲撃が容易であると考えられたからです。
4人が兄弟に襲いかかっている間に司祭サルヴィアーティとヤコポ・ブラッチョリーニその他はシニョーリア宮殿を占拠し、
ヤコポ・ディ・パッツィが市民に暗殺実行と自由獲得を告げて回るということになっていました。

しかしミサが始まってもジュリアーノが到着しないためフランチェスコとベルナルドは心配になり、
わざわざ家までジュリアーノを迎えに行きます。
この時教会まで同行する道すがら、ジュリアーノの体に触れ鎧を着けていないかどうかも確認したといわれています。
ジュリアーノはもともと慎重な若者で常に体を護るために鎧を着け刀を差していたのですが、
その日は折から足の具合が悪かったため、体を軽くするために鎧は着けず、
また痛む足に当たって鬱陶しいという理由で小刀も家においてきているのです。

いよいよ聖体奉挙のときがやってきて、まずベルナルドが短剣でジュリアーノの胸を一突き、
逃げようとするところをフランチェスコが取り押さえて短剣でやたらに刺しつけます。
狂気に触れたように刺し続けて彼自身が自分の太腿も傷つけているほどです。
一方ロレンツォのほうは首を若干かすった程度で、
自分のマントを左手にまきつけて敵を打ち倒し、聖具室のほうへ逃げていきます。
それをみつけたベルナルドが襲いかかりますが、フランチェスコ・ノーリが盾となってロレンツォを護り、
その場に居合わせたポリツィアーノ(Angelo Poliziano)が聖具室の扉を開けてロレンツォを逃します。
首を傷つけた短剣に毒が塗られていたときのことを考えて
その場にいた友人アントニオ・リドルフィ(Antonio Ridolfi)がロレンツォの傷口から血を吸い取って応急手当をしています。
教会内にたくさんいたメディチ親派に護られてロレンツォは自宅に戻ります。

計画通りにシニョーリア宮殿を占拠すべく宮殿内に立てこもった陰謀派は
「そのときが来るまで身を隠せ」という命令でご丁寧にも扉を閉めて各部屋に篭り、
このおかげで後々容易に捕らえられてしまうことになります。
何か異常事態が発生したとサルヴィアーティたちが気づいたときは、
もう既に遅くメディチ家の放った追手はすぐそこまで来ているという状況でした。
ベルナルドはロレンツォが助かったこと、味方であるフランチェスコが傷を負っていることを確認し、
逃げ延びる可能性はないと察し茫然自失となりますが、結局は一番最後まで逃げ続けています。
当のフランチェスコは馬に乗って逃げようと家に帰ったもののあまりの痛さに動けず、自宅のベッドで横になり、
また市民に自由獲得を告げて回ったものの誰一人賛同するものがなく引き返してきたヤコポ・ディ・パッツィは
計画の失敗を悟りロマーニャへ逃げていきます。

陰謀のことなど何も知らされていなかった枢機卿サンソーニは驚いてドゥオーモの主祭壇に逃げ込みやがて解放、
グリエルモ・デ・パッツィは自分の妻ビアンカ(メディチ家から嫁いでいる)を伴ってロレンツォの自宅に赴き
彼女に免じて許してくれと懇願して命を繋ぎますが、流刑。
グリエルモの従兄弟たちは命は助けられたもののヴォルテッラの要塞に監禁。
レナート・パッツィは一族の中で唯一陰謀に参加せず、自分の別荘に引きこもっていたのですが、
恐れをなして農民に扮装して逃走するも、やがて発見されフィレンツェに引き連れられ絞首刑。
ロマーニャに逃走を図ったヤコポ・ディ・パッツィもアッペンニーノ山脈越えをしているときに捕らえられ、
賄賂も祈りもむなしくその場で殺害されています。
このヤコポの遺体は初め一族の墓に埋められたものの、
殺される間際に神を冒涜したという噂が流れ、聖なる地に埋葬するに値しないとされ
墓から引きずり出されてフィレンツェの城壁の外に埋められますが、
そこでも満足できなかったフィレンツェ市民はやがて全裸で市中引き回しにした挙句アルノ川に捨てています。
ジャンバッティスタ・モンテセッコは長い尋問の末、打ち首。
ベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェッリはコンスタンティノープルまで逃げ延びますが、
1479年12月29日にモハメット2世がロレンツォに引渡し、
フィレンツェのバルジェッロの窓から晒し首吊りになっています。










Scoppio del Carro e Famiglia Pazzi
スコッピオ・デル・カッロとパッツィ家
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サンタクローチェ教会
クリスマス・メルカート
パッツィ家礼拝堂

パッツィ家の陰謀
スコッピオ・デル・カッロとパッツィ家
フィレンツェには、毎年春の復活祭を祝った有名なお祭りがあります。
これがスコッピオ・デル・カッロ(Scoppio del Carro)とよばれるもので
生粋のフィレンツェ人はもう最近は見なくなったともいわれるほど
観光名物になった大騒ぎのお祭りです。
火薬と花火を仕掛けられて派手に飾り付けられた山車を
ドゥオーモのまん前でバチバチと爆発させるというお祭り。
(2000年のパスクアの様子に興味がある方はこちらから)

このお祭り自体の起源は、
12世紀末にイタリアから最初の十字軍が派遣されたとき
フィレンツェのキリスト教信者だったパッツィーノ・パッツィー(Pazzino Pazzi)が
なんと名誉なことに
イエルサレムの城壁に初めてキリスト教を示す旗を立てたことを称えて、
ご褒美に「石」をもらったことに始まります。
伝説ではこれはキリストを祀った墓
サン・セポルクロ(San Sepolcro)の一部だともいわれています。
この石を貰ったと同じときにパッツィ家の紋章も
今に受け継がれている「二匹のイルカと十字架」に決まりました。

この名誉ある石はフィレンツェへ持ち帰られて大事に祀られる事になります。
そして今はフィレンツェのサンティッシミ・アポストリ教会
(Chiesa di SS.Apostoli)に保管されているはずです。

言い伝えではこの石を使って復活祭前夜に火が熾されて
パッツィ家の人々が市民にその火を配ったといいます。
最初はたいしたことはなかったこの復活祭にまつわるお祭りは
その後もずっと長くパッツィ家によって受け継がれていきます。
今のような山車が出来上がったのがいつごろかはっきりしませんが、
有名な「パッツィ家の陰謀」(1478年)の頃には
もう山車の原型のようなものが存在したといわれます。
1859年にパッツィ家最後の直系である
ガエターノ・ディ・パッツィ(Gaetano di Pazzi)がこの世を去ったあとは、
フィレンツェ市がこのお祭りの主催をすることになりました。





クリスマス・メルカート
MERCATO NATALIZIO
2003年11月最終週末から
恒例のサンタクローチェ教会前のクリスマス・メルカート
教会前の広場にいくつもの屋台が出ます
クリスマス・メルカートいうわりには
クリスマス関係の伝統的なものを
売っているお店は少ないんですけど



日曜日は自分の足下が見えないくらいの人出
←遠くから見たらメリーゴーランドかと思ったものの
近くに行ったらゆっくり回るカフェでした
これってマジでコーヒーカップ?
クマさんの乗った屋台が教会とミスマッチ
その屋台では
合成着色料と香料がんがん使った
あまぁいお菓子が
山のように積まれて売られています
イタリア人の中には
このお菓子好きな人多いんですよ
←クリスマスっぽい雰囲気を醸し出すもの
とうもろこしの葉っぱで作ったプレセピオ
日本のお祭りでもよく見かける「リンゴ飴」
ほかにもブドウやイチゴが飴になってたり
フルーツがチョコレートがけになってたり
とにかく甘そう

でも色合いはきれい
クリスマスとは関係ないような気もするけど
木で作ったバラのブーケと
ラベンダーの山
(ラベンダーは本物なのでいい香り)


バラのブーケは15本で10ユーロっていうから
少し惹かれたんだけど
何色の組み合わせにするかで悩んでしまい
次回に持ち越し
オーストリアだったかドイツだったか
とにかくそちらの街との提携でやっている
クリスマス限定バザーなので
そちらの名物も色々と

パン生地かと思ったらでかいビスケット!
焼き立てを待っている人で行列が

ビン・ブリュレ
温かいワインを
いかにもなカップに入れて飲ませてくれます
ドイツといえばウィンナー
50センチもある長いタイプのもの
白いウィンナー・赤いウィンナー
ピリ辛ウィンナーと種類も選べて
ここも常に長蛇の列
ようやく手に入れたパニーノは
ウィンナーがパンの3倍
ウィンナー食べているようなもんです
シャキシャキでおいしい!